パテック・フィリップ(PATEK PHILIPPE)腕時計高価買取のポイント
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パテック・フィリップ(PATEK PHILIPPE)の歴史と特徴
創設から数多くの伝説を時計史に刻み込み、今なおスイス時計産業の頂点に位置するパテック・フィリップ。しかし,これらの伝統を一通り横断してみても、絶対に本質は浮かび上がってこない。パテックが何故、今日まで超一流になりえたのかという、なんらかの因果関係を発見しないことには、何の意味をもなさないからだ。
時は1814年。ナポレオン一世の進攻に勝利した帝政ロシアは、この年のウィーン会議において、「ナポレオン1世が設立したワルソー大帝国をその支配下に置く」という権利を獲得した。これによりポーランドは事実上ロシアの領土となった。だが、他国の内政の干渉のなかからは、いつの時代もその体制を根底から覆そうとする動き生じるものだ。1803年、ワルソーの地を中心としたポーランドの動乱が勃発した。しかし民衆の必死の抵抗も空しくロシア軍に鎮圧され、以後ポーランドはロシアのより強固な圧制下に置かれることになる。この動乱の失敗に絶望感を抱き、近隣諸国に亡命する人々は後を絶たなかった。その中にアントワーヌ・ド・パテックという貴族がいた。彼はスイスのジュネーブに安住の地を求めることになる。
スイスの地で時計産業が確立したのは16世紀末から17世紀にかけての時期だ。この時計産業 明期構成した人々は、ほとんどがフランスやドイツから亡命した時計職人たちであった。当時の時計職人は天文学などと綿密な関わりをもつ知識階級で、当時のローマ・カトリック教会の腐敗に反旗を翻した宗教改革を全面的に支持していた。その反動としてローマ教会の弾圧が活発化し、行き場を失った時計職人たちは宗教の自由を求めて、スイスやベルギーなどに亡命した。もう二度と祖国に帰れないという一大決心を抱き、異国の地にやってきたのだ。アントワーヌ・ド・パテックが彼らと同じ亡命者であることは、我々にひとつの示唆を与えてくれる。つまり一旦帰るところを失った人々は、その憤りや屈辱感などをバネに、異国での成功に邁進するのである。パテックが彼らと違っていたのは、時計職人ではなかったということ。しかし彼は、その生涯において天才的な時計職人と出会うことになる。亡命者という立場ではあったものの、莫大な資産と先見の明を有していたパテックは時計産業に生涯をかける決心をした。彼はフランソワ・チャペックという時計士を見いだし、1839年、パテック・フィリップの前身であるパテック・チャペック社を創設した。10名前後の小規模所帯ながら、製品の評判は上々で、1844年に開催されたパリ万博に出品するまでに至る。この万博においてパテックは、運命的な出会いを果たすことになる。
1840年代のパリ。一人の男がある考えを頭に描きながら、パリの街を していた。男の名はアドリアン・フィリップ。パリでも有数の時計職人である。天分のある人々は、いつの時代も現状に満足できない。彼もまたそのうちの一人である。当時の時計はリューズの代わりにカギで時間調整やゼンマイの巻き上げを行うカギ巻き方式であった。ところが、この方式は機構上の欠陥によりトラブルが頻発し、そして何より取扱が非常に厄介であった。「当時の女性が身に着けていた時計で正確に時を刻んでいたものはほとんどない」とまで言われたほどだ。時計の世界に携わる者として、フィリップは、なにか改善策はないかと日夜、模索し続けていたのだ。彼にはあるひとつのアイデアがあった。1838年スイスで開発されたリューズ巻き方式である。彼がこの未知の機構を目にしたことはなかったようだが、カギ巻きに代わる機構はこれしかないと確信していた。数々の試行錯誤の末、彼はリューズ巻き方式を当世流行の薄型ポケット・ウォッチに搭載して、1844年のパリ万博に出品、これが見事に入賞を果たしたのであった。喜びに浸る彼にもう一つの喜びが加わった。この時計の機構特許を莫大な費用で買い上げ、ひいては自分の会社の工場に招聘したいという誘いを受けたのだった。誘ったのはアントワーヌ・ド・パテック。パテックとフィリップの運命的な出会いである。
1851年、パテック・チャペック社から「パテック・フィリップ社」へ社名を変更し、パテック・フィリップの本格的な船出が始まった。二人の天才は出会うべくして出会った。かたや祖国を追われた亡命貴族、かたや自らの才能をなかなか形にすることできなかった不遇の天才時計職人。この二人の攻めぎ合いから、数々の傑作が誕生した。まず1848年にはゼンマイで稼動する秒針付き時計を開発。そして1851年には、ロンドンで開催された第一回万国博覧会に作品を出品、見事に金メダルを獲得する。さらにこの時計を気に入ったビクトリア女王は、パテック自信作のロイヤル・ブルーのエナメル装飾を施したブローチ型の時計を購入した。以後女王はパテック・フィリップの重要な顧客となる。ワーグナー、プーシキン、トルストイをはじめとした多くの名士たちもこれに続いた。
命ある迎える者は必ず終焉を運命だ。1877年にアントワーヌ・ド・パテックが、1894年にアドリアン・フィリップがそれぞれ、波乱に満ちたその生涯を閉じた。彼らの意志を引き継いだ新しい経営者は、1920年代に入ると生産ラインを腕時計中心に切り替えた。いよいよ、われわれのよく知る、完璧なまでの精度と美しさを誇る腕時計の登場である。
パテック・フィリップの代名詞と言えば、何と言っても1930年代に発表された、96タイプと呼ばれるモデルである。多様な文字盤が存在し、好事家の食指をくすぐるが、これらの文字盤の仕上げをよく見てほしい。インデックスと針のバランスの妙に、まず驚かされるはずだ。そしてスモール・ダイアルに目をやると、あのわずかなスペースに、細かなインデックスが均等に、しかも美しく描かれているのを発見するだろう。「文字盤をカンバスにみたてる」という表現がよく使われるがバテックの96タイプは実に簡潔に、しかも最高の技術でこの表現を実践しているのだ。この比類なき美しさは、パテックとフィリップの出会いがなければ、われわれは目にすることさえできなかったのである。
「外側と同じように内部も美しい時計を作るには、いささかの妥協も許さない時計作りが要求される」この言葉は、パテック・フィリップの現会長であるフィリップ・スターンの言葉である。ムーブメントは材質の吟味に始まり、加工精度は0.1ミクロンの誤差も許されない。そして各部品はひとつひとつ、ホウの木を使って磨き上げるという、古典的な手法を今なお、頑なに守り続けている。それはケースの加工や装飾にも貫かれている。機械化が全盛を極めるなか、ほとんど手作業に近い方法でバテックの時計は生み出されているのだ。ひとつの時計を仕上げるのに、最低でも9ヵ月かかるというパテックの神話はここに起因している。
バテックとフィリップの鮮烈なまでの避遁は170年以上たった今も脈々と息づく。
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